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help リーダーに追加 RSS 吾妻鏡と玉葉【定稿】

<<   作成日時 : 2006/08/06 00:57   >>

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【旧稿再録】
   吾妻鏡と玉葉(政治手法の西と東 五 ──なかじきり── 【1】)
【初出、『愛国学園大学人間文化研究紀要』八号、二〇〇六年。参照の便宜のために初出でのページ替りとその直前のページの番号を 」(p00) の形で示したほか、最小限度の加除訂正をおこない、それらを緑字で示しました。】
 「政治手法の西と東」の題でこの紀要に連載し、源頼朝と藤原兼実との思考方法を見てきました(注1)。合わせて、これと密接にかかわる二、三の論点についても場を異にして考えることができました(注2)。本来ならここで、前回末尾で述べた点などを踏まえながら初期鎌倉幕府の政治手法の基礎にあった思考方法とその確立過程についてまとまった見解を示し、それら全体に対する結びとしたいところなのですが、残念ながらいまのわたくしにはそれをするだけの力がありません。そこで、いまわたくしの念頭にあるその点をめぐる雑感をとりとめのないままに述べて、取敢えずの「なかじきり」とすることとします。

一 吾妻鏡と玉葉(注3)
 はじめに、政治手法そのものの理解に直接に結びつくものではないのですが、吾妻鏡の編纂に玉葉が用いられたか否かの問題をとりあげます。頼朝の思考を考えるための素材の史料的性格を定める上で重要な論点だとして上の一連の論考の中で関説しながら、立場を曖昧にしたまま論断を避けてきていますので、その点を解決しておきたいと思うのです。

 1 問題の所在
 吾妻鏡と玉葉との関係については、古く八代国治氏がその著『吾妻鏡の研究』(注4)で吾妻鏡文治元年十二月六日条が収める同日付頼朝書状(「天下草創書状」とよぶことにします)によって玉葉を吾妻鏡の編纂材料の一つと主張して以来、それが長く通説の位地を占めてきましたが、比較的近年平田俊春氏が論文「吾妻鏡編纂の材料の再検討」(注5)で八代氏の論拠を妥当でないとし、問題の書状の送達についての吾妻鏡の関連記載を傍証としてそれが幕府政所にあった案文に拠ったのであろうという推定を提出するとともに、そこにとどまらず吾妻鏡の編纂材料に玉葉が存在しなかったと結論して吾妻鏡と玉葉との関係を一般的に否認した後は、その関係の否認を含む平田説の玉葉にかかわる見解の全体が学界の支配的見解となったように思われます。
 しかし、平田説は問題の頼朝書状に関する限りは、確証はないとは言え、論証の形を具えていますが、論点を八代氏が取り上げた論拠の妥当性にだけ限っていて、その他の吾妻」(p1)鏡の記述内容にまでわたって玉葉との関連を問うことをまったくしていませんので、それだけの手続で一般論として両書の関連を断ってしまったことは、あきらかに論理の飛躍であり、推論の有効性の限度を越えて論断する誤謬に陥ったものです。平田説がしたと言えるのは、八代説では吾妻鏡と玉葉との関係が証明されたことにならないことの指摘だけであって、吾妻鏡と玉葉との一般的な関係については、平田説は何事も論証してはいないのです。
 果して吾妻鏡に玉葉に拠った部分はないのでしょうか。頼朝書状では、天下草創書状でもこの問題は無視できませんが、とくに「大天狗」の語を持つことで知られる書状(「大天狗書状」とよぶことにします)ではこのことがその解釈を左右し史料的位置を定める重大な意味を持ちます。そこでここでは大天狗書状について考えた拙稿(「源頼朝「大天狗」書状小考」(注2所掲)。「大天狗稿」とよびます)での指摘を振り返りながら、吾妻鏡と玉葉との関係についてあらためて考えてみます。

 2 大天狗書状関連記載の玉葉依拠
 この大天狗書状は吾妻鏡と玉葉とにともにあらわれます。その書状をそれがあらわれる日付の条の関連部分とともにまず掲げましょう。

……大蔵卿泰経朝臣使者参着。依怖刑歟、直不参営中、先到左典厩御亭、告被献状於鎌倉殿之由。又一通献典厩。義経等事、全非微臣結構。只怖武威伝奏許也。及何様遠聞哉。就世上浮説、無左右不鑽之様、可被宥申云々。典厩相具使者、達子細給、府卿之状披覧。俊兼読申之。其趣。行家・義経謀叛事、偏為天魔所為歟。無宣下者参宮中可自殺之由、言上之間、為避当時難、一旦雖似有勅許、曾非叡慮之所与云々。是偏伝天気歟。二品被投返報云。行家・義経謀叛事、為天魔所為之由被仰下。甚無謂事候。天魔者、為仏法成妨、於人倫致煩者也。頼朝降伏数多之朝敵、奉任世務於君之忠、何忽変反逆、非指叡慮被下院宣哉。云行家云義経、不召取之間、諸国衰弊、人民滅亡歟。仍日本第一大天狗者、更非他者歟云々。 (吾妻鏡(注6)文治元年十一月十五日条)

……辰刻、大夫史隆職来云。……又云。去夜自鎌倉泰経卿許有書札。於院御所相尋之処、当時不祗候之由、人々答之。于時大怒、投文筥於中門廊逐電了。仍定長披件文筥〔筥、底本籍ニ作ル。コ一本ニヨリテ改ム〕奏聞。其趣人不知云々。……午刻、右少弁定長為法皇御使来。余呼簾前逢之。定長与書札一通、仰云。頼朝卿申状如此。召問子細於泰経、取陳状可遣歟。将又、無左右可被行罪科歟。可令計申者。披見頼朝書札之処、先立文表書云。大蔵卿殿御返事。其下無署名。其内状云。行家・義経謀叛事、為天魔之所為之由被仰下。甚無謂事候。天魔者、為仏法成妨、於人倫致煩者也。頼朝降伏数多之朝敵、奉任世務於君之忠、何忽変反逆、非指叡慮之被下院宣哉。云行家云義経、不〔不、底本ニナシ。コ一本ニヨリテ補フ〕召取之間、諸国衰弊、人民滅亡歟。仍日本国第一之大天狗ハ、更非他者候歟。仍言上如件云々。…… (玉葉(注7)文治元年十一月二十六日条)

 下線を施したその書状の文面と、他の条に」(p2)あらわれるものをも含めたそれに関連する記載とを通観すると、玉葉の場合は事実を忠実に記述した日記ならば当然のことですがそれらを整合的に理解することに格別困難を感じさせないのに対して、吾妻鏡の場合はそうでない点が数多くあるという際立った違いのあることに気づかされます。めぼしいものを二、三摘記して、その理由を見ると、つぎのようになります。
(1) 大天狗書状の玉葉依拠
 まず吾妻鏡の載せる大天狗書状の文面そのものにあきらかな不自然さがあって、玉葉のそれの引写しと考えなければならないだろうことは、大天狗稿ですでに述べました。──(吾妻鏡の載せる書状文面で)玉葉の載せる書状文面と異るのは、若干の文字の異同を除くと、末尾に「仍言上如件」がないことだけで、内容的にも形式的にも同一とみなすことができます。この同一性こそがここでの最大の問題です。この引用文は原文書に対して書き出しにも省略があるかもしれませんし、文末にすくなくとも日付・宛所・差出書が省かれていることは確実ですが、この省略が(玉葉の筆者の場合にはごく自然なことと理解されるのに対して)吾妻鏡編者にとって決して当然のものでないことは多くの同書引用文書の形式を見れば歴然としていますし、それだけでなく、頼朝書状について記録を残そうとする場合に、それが同時的な記録の場合であろうと歴史書編纂のような場合であろうと、書状本文の主要部だけを抄出し、頼朝の署判を含む後付を省いてしまうようなことが幕府当局者によっておこなわれることはいちじるしく不自然ですから、この吾妻鏡の引用形態はこの部分が幕府側の資料に拠ることができず、玉葉に依拠したのであろうことを強く示唆するものです。玉葉と吾妻鏡との関係は現在のところ証明されたとは言えないようですが、ここでの同一性はそれを考える有力な事例となるものではないかと思われます。すくなくとも吾妻鏡編者がこの部分の編纂に際して手にすることのできた「大天狗」書状は、その原形を伝えず、省略の仕方までを含めて玉葉と極めてよく一致する幕府外の人物の手になる抄出文であったことは確かです。しかも吾妻鏡はこの頼朝書状そのものに関しては、たとえば作成・発信への関与者などのような同書が他の多くの場合に記載する(幕府当局の記録者にとって省き難い意味を持っていたことが知られる)事項についても、実質的に意味のある事実は一切述べていないのですから、編者にはその抄出文以外この部分の記述に利用することのできる資料はまったくなかったのだと考えなければならないでしょう。頼朝書状の作成・発信のような、吾妻鏡編纂にとって最も重要度の高い問題について、編者が置かれていた資料情況は、「大天狗」の書状に関するかぎりそのようなものだったのです──と。学界での学説情況に配慮して、編者によって資料として用いられた抄出文を「幕府外の人物の手になる」とだけ述べて、それが玉葉からのものであると断定することは控えたのでしたが、それはむしろ無用な遠慮だったでしょう。
 玉葉がこの記載を残したのは、筆者藤原兼実が右大臣としてこのような場合に後白河法皇の諮問に与る立場にあったからですが、この時点で同様に諮問に与り書状の原文を知ることができたのは摂政藤原基通・左大臣藤原経宗・内大臣藤原実定に限定され、その中で」(p3)このような抄出文を含む記録を残したのは兼実を措いては他にないと考えられますし、仮にあったとしても、省略の仕方でここまで一致することはほとんどありえないでしょうから、編者が手にした大天狗書状の原資料は玉葉由来のものだったと断定してよいでしょう。そうしますと、編者は書状の日付も知ることができなかったことになりますから、吾妻鏡がこの記事を係けた日付は、原資料が持っていたであろう書状の後白河御所への到着を記した玉葉の記事の日付文治元年十一月二十六日から逆算して設定したものだったのだろうことも確実に推測され、その信頼性の限界もあきらかになります。
(2) 大天狗書状を返書とする書状の玉葉との関係
 上掲の吾妻鏡の記載は、大天狗書状の文面を掲げるに先立って、頼朝がこの書状を書くにいたった経緯を時間を追って詳細に述べた部分を持っていますが、頼朝執筆の書状についてさえ玉葉の抄出文以外にの資料を持たなかった編者が、幕府側にしか記録の残りようのない(もちろん玉葉には記載のない)これらの事実に関して、資料を手にしている可能性は皆無でしょう。このことだけでもその部分の信憑性を否定するには十分です。その上に、そこには玉葉の伝える確実な事実と明白に食い違っていて虚偽であることを玉葉によって証明できる記述が一、二にとどまらず発見できるのです。これらの部分が編者の臆測だけに基づいて書かれた完全な創作であることは疑えないようであり、したがってその部分について玉葉との関連を問うことはまったくの徒労であるかのように見えます。
 ところが、興味深いことに、事実に反することのあきらかなそれらの記述のひとつ、高階泰経執筆の頼朝宛の書状だとされるものにあらわれる、源義経についての「無宣下者参宮中可自殺之由、言上」という表現は、実は玉葉とは切っても切れない関係にあることが知られるのです。
 そのためには、まずその表現が吾妻鏡の内部に拠り所を持っていることを知らなければなりません。

去十一日并今日、伊予大夫判官義経潜参仙洞、奏聞云。前備前守行家向背関東企謀反。其故者、可誅其身之趣鎌倉二位卿所命、達行家後聞之間、以何過怠可誅無罪叔父哉之由、依含鬱陶也。義経頻雖加制止、敢不拘。而義経亦、退平氏凶悪令属世於静謐。是盍大功乎。然而二品曾不存其酬、適所計充之所領等悉以改変、剰可誅滅之由有結構之聞。為遁其難已同意行家。此上者可賜頼朝追討官符。無勅許者両人共欲自殺云々。能可宥行家鬱憤之旨有勅答云々。(吾妻鏡文治元年十月十三日条)

 下線を施した「無勅許者両人共欲自殺云々」の部分が書状の「無宣下者参宮中可自殺之由、言上」に酷似していることに注目すれば、それぞれを含む吾妻鏡の両記事はどちらかが他方(あるいはその原型)を下敷きにして書かれたと考えるのがもっとも自然ですが、そこではその義経発言の出現の経緯そのものを主題とする十月十三日条の方が当然先行しなければなりません。書状は十月十三日条(かその原型)を資料のひとつとして書かれたことになります。ところが皮肉にも吾妻鏡のその条こそ、問題の義経発言の実態を伝えて書状の記載が事実でないことを証拠立てた当の玉」(p4)葉の記事に依拠したものだったのです。

早旦、大蔵卿泰経、為院御使来門外云。[依穢不入門内。以季長伝申。]去十一日、義経奏聞云。行家已反頼朝了。雖加制止不可叶。為之如何者。仰云。相構可加制止者。同十三日、又申云。行家謀叛雖加制止、敢不承引。仍義経同意了。其故者、奉身命於君、成大功及再三。皆是頼朝代官也。殊可賞翫之由令存之処、適所浴恩之伊予国、皆補地頭、不能国務。又没官所々廿余ヶ所、先日頼朝分賜。而今度勲功之後、皆悉取返、宛給郎従等了。於今者、生涯全以不可執思。何況遣郎等可誅義経之由、慥得其告。雖欲遁不可叶。仍向墨俣辺射一箭可決死生之由所存也云々。仰云。殊驚思食。猶可制止行家者;㋐其後無音去夜重申云。猶同意行家了。子細先度言上。於今者、可追討頼朝之由、欲賜宣旨。㋑若無勅許者、給身暇可向鎮西云々。見其気色、主上・法皇已下臣下・上官、皆悉相率可下向之趣也。已是殊勝大事也。此上事何様可有沙汰乎、能思量可計奏者。[泰経内々曰。左・内両府被遣召了。内府申只今可参之由。左府未承返事云々。](玉葉文治元年十月十七日条)

 吾妻鏡には玉葉の述べない行家の謀叛の動機の記述が含まれ、玉葉の下線部㋐の看過によると思われる発言の日付の誤りがあるほか、要約による内容の不当な単純化を犯していることが認められますが、義経発言の問題部分を除けば記述の順序にまで及んで著しい一致が見られます。吾妻鏡が発言を十三日の事実だとする理由も玉葉の記載が原拠だと考えない限り合理的に説明することは困難でしょう。両記事の親縁関係は疑いようがありません。しかもこのことが朝政の枢機にかかわる重大な機密であり、この問題に関与してそれを知り得た者は後白河と摂政基通とそれに院使高階泰経とを除けば左・右・内三大臣だけであることが玉葉に明記されていることを考慮すれば、さきの大天狗書状の文面についての場合とまったく同様にして、吾妻鏡のこの部分もまた玉葉に拠ったのであることを認めなければならなくなります。その、まさに玉葉から生れた吾妻鏡の記事が、下線部㋑と照合すればあきらかなとおり、それにもかかわらず問題部分についてだけ玉葉と異なる記述をしているのです。その理由を一義的に確定することはできません(注8)が、いずれにせよその結果として、吾妻鏡の記載が偽作であることを証明する玉葉との齟齬が、この記事に結びつくことによって、かえって吾妻鏡の玉葉依拠を根拠づけることになりました。逆説のようにも聞こえるでしょうが、義経による頼朝追討宣旨宣下要請の過程に触れた泰経執筆の頼朝宛書状は、書状としてはまったくの虚構であることを否定できませんが、要請過程については玉葉の述べる事実を踏まえていたのであり、その意味で、その書状は、間接的ながら玉葉に依拠しているのだと言うことができるのです。
(3) 大天狗書状の依拠した玉葉資料の性格
 (1)と(2)とで述べたことによって、吾妻鏡がその編纂に際して玉葉を利用していることは疑うことができなくなりました。ことに(1)で述べたように大天狗書状が玉葉に拠っているものとすると、それを伝える玉葉記事の主題であった書状の朝廷到着時の状況が当然吾妻鏡にもあらわれることが期待されます。吾妻鏡の内部で考えても、頼朝による抗議書の起草として大天狗書状の成立が詳述された以上、しかも大天狗稿で述べたとおり、そこに」(p5)あらかじめ頼朝の大きな政治的意図が籠められてい、しかもそれに応じて到着時の使者の行動に作為的な演出さえも加えることが予定されていたと読める記述が玉葉にあるのを見れば、それにしたがって到着状況を記すことは編者にとってもごく自然なことでなければなりません。ところが不思議なことに、はっきりとわかる形では吾妻鏡はそれに触れないのです。そして同書が掲げるのがつぎの記述です。

@大蔵卿泰経朝臣籠居。A是義経申下追討宣旨事、依為彼朝臣伝奏。源二位卿殊鬱申之趣、達叡聞之間、勅定如此云々。B泰経同意行家・義経謀叛事、載書状挾竹枝、昨日立帥中納言庭。黄門乍驚披見之、付定長朝臣備奏覧云々。 (吾妻鏡文治元年十一月二十六日条)

 玉葉に大天狗書状が現れるのと同じ日付に係けられていて、@泰経が後白河によって籠居に処されたこと、Aこれは頼朝追討宣旨の宣下に際して伝奏を務めたのが泰経であったからであり、頼朝がとりわけ「鬱申」し(憤懣を申入れて来)ていることが後白河の耳に達したので後白河がそう決定したのであること、B泰経の義経らの謀叛への加担を述べた書状が前日藤原経房の屋敷に届き藤原定長の手で後白河に伝達されたこと、の三点が述べられていて、明記されてはいませんが、Bの書状がAの頼朝の「鬱申」しを内容とするものであったことを示しています。この三点を玉葉の同日条と対照すると、そこには、 ㋐泰経の処置が後白河によって諮問されていること、㋑これは前夜泰経を形式上の受取人として大天狗書状が届けられたことへの後白河の対応であること、㋒大天狗書状は頼朝追討宣旨宣下に対する頼朝の後白河への抗議を内容とし、前夜頼朝の使者によって後白河の御所に届けられたものであること、などの記述が見出され、大まかながら対応関係が認められますし、特に当事者が後白河と泰経であること、事態の発生原因が頼朝追討宣旨宣下に対する頼朝の意思表明であること、などでは完全に一致しますから、吾妻鏡の記載は玉葉の述べるのと同一の事実に関する異伝であることは間違いありません。京都での事実ですので、幕府独自の資料の存在は考えにくく、仮にそれがあったとしても編者としては京都側の資料を重視したはずなのですが、それにもかかわらず、玉葉が大天狗書状を引用するに先立って地の文で詳述する後白河御所への到着状況はまったく現れず、玉葉を意識するだけで明白になる到着した書状の大天狗書状との同一性さえ示されないのです。この部分の記述に玉葉が用いられていないことは確かです。
 なぜこのようなことが起るのでしょうか。
 すでに述べたように、前夜届いた大天狗書状については編者の手許に玉葉からその引用部分をそっくり抄出した資料があり、編者はそれを十五日条の作成に用いたのですが、玉葉の記載ではそれと一体のものとして記述されているその到着状況とその直後の朝廷の対応についての部分は、その資料には含まれていなかったと考えるほかないでしょう。吾妻鏡編者が玉葉を利用できたとしても、その内容の社会的影響を考えても、また鎌倉時代の貴族社会で家伝の日記・文書が占めていた位置を考えても、たとえ写しであっても玉葉の全体が幕府側の編者の手に渡るなどということがあるはずはなく、ある条件の下で九条家」(p6)側によって抄出本が作られそれが幕府側に引き渡されたのであることは確かです。したがって、その抄出の条件がどのようなものであったかが重要な問題になりますが、(1)と(2)での考察の結果とこの事実とを考え合わせると、九条家による玉葉の抄出は、幕府関係の重要人物の書面または口頭での発言とそれに直接関連する朝廷側の人物の発言にかなり厳密に限定しておこなわれ、地の文での背景説明や兼実の対応の記述などは省かれるのを原則としていたことになるのです。吾妻鏡の玉葉利用は、玉葉の地の文が含む詳細な朝幕交渉の記述には及ぶことのできない限界をもともと持っていたのです。
 玉葉からの資料の性格がそのようなものだったとした場合、編者は二十六日条を何によって書いたのかが知りたいところです。玉葉の記述を疑う理由はありませんから、㋐㋑㋒はすべて事実であるとしてこの事実を吾妻鏡の記載と対比すると、㋐と@とは異なる事実ながら両立可能であり、㋑とAもそれぞれ㋐と@との主観的解釈を含む理由づけとしてならともに事実として成り立ちます。問題はBで、㋒が事実である以上これは誤りとするほかありませんが、そこに藤原経房が重要な位置を占めて登場していることが注目されます。誤った記述ではあるものの、㋐㋑とともに経房に関係する出所を持つ資料に基づいて書かれた可能性が出てはくるでしょう。仮にそうであったとしても、その資料に大天狗書状の原文からの引用が含まれていなかったことは、編者がこの記載を十五日条と関連付けていないことによって明白で、これまでの推論はそのまま成り立ちます。しかし経房自身の記述が事実をこのように誤ることはありえませんし、むしろこのような錯誤は編者がこの時期の経房の朝廷での立場などから状況を空想する場合に起りがちなものであることを考えると、すくなくともこのBの部分は編者の創作だと考えたほうがよく、おそらくこの全体は、この日の朝廷による泰経への対処と、その原因に前日異常な届き方をした泰経にかかわる書状の後白河への伝達があったこととを伝える簡単な記述が編者の手にあって、それだけを資料に編者が潤色作文したものだったのでしょう。編者はこの日の事実を伝えるもう一つの資料として、玉葉から抄出し、その記事の二十六日という日付を伴っていたに違いない、大天狗書状の引用文をも持っていながら、それはすでに十五日条の作成に利用してあったために、さらにそれがこの日の記述にも使えるものであることを見逃したのだと思われます。

3 天下草創書状の玉葉依拠
 吾妻鏡編者の玉葉利用について以上のように考えることができるとすると、平田氏によって否定された、天下草創書状を玉葉に由来すると考える考え方にも、復活の道が開けます。九条家側の資料作成が頼朝書状の採取を重視してなされたことは、地の文に組み込まれていて目立たない大天狗書状の部分的引用をさえ取り入れていることで明白で、その資料が玉葉の含む頼朝書状の中で質量両面で卓越し、九条家に有利なことはあっても不利な要素をまったく含まないこの書状を取り落すことは考えられませんし、そうであったとすれば、仮に草稿または控えとして幕府側に残された資料があったとしても、実際に用いられたものの記録として九条家側の資料が優先」(p7)して使用されたに違いないからです。もともと平田氏には、この書状の出所を玉葉でないとする積極的な論拠はなく、八代氏の論証の不完全を指摘し、この書状に関連する吾妻鏡の記述に幕府側の独自資料に拠ったと考えなければならないものがあることを傍証として、書状そのものについても幕府側に資料があったのだろうと考えたに過ぎませんが、書状と関連記載との史料的性格は大きく異なり、むしろ別個の原拠を考えることのほうに合理性があると言えますから、この点も上のように推論する妨げにはならないでしょう。また兼実宛私信と院奏折紙という、宛先と目的とを異にし、作成の手続や関与者にも違いがあるはずのものが、順序こそ違え玉葉での取り扱いそのままに一括され、作成の経緯の差異に一切触れることなくただ羅列されているという記載の形態も、玉葉の場合には兼実がそれらをまとめて同時に受け取っていることから当然のことと説明できる事実が、それらをそのように扱う必然性のない吾妻鏡にそっくりあらわれていることを示し、この記載の玉葉との親近性が決定的なものであることを強く印象づけます。この書状が玉葉に拠って吾妻鏡に収められたことは確実だと言うことができるでしょう(注9)。

4 結び
 吾妻鏡の編纂には、玉葉から九条家によって抄出作成された資料が用いられたであろうことを論じ、その資料の史料的性格をも考えて見ました。御叱正を請います。
」(p8)


1 この連作「政治手法の西と東」の「一」〜「四」(『愛国学園大学研究紀要』4〜7号、二〇〇二〜二〇〇五年。いずれもここに再録。
2 「平清盛の政治手法寸見──玉葉治承三年十一月十五日条精読──」(『明月記研究』6号、二〇〇一年。ここに再録)・「玉葉の「物議」と「時議」──本文復原への一試行──」(『史学雑誌』一一四編一号、二〇〇五年)・「源頼朝「大天狗」書状小考」(『日本歴史』六九一号、二〇〇五年)
3 この章は、「吾妻鏡と玉葉」(未定稿)として中間報告をインターネット上(『歴史を考える部屋』http://ronfoo.at.webry.info/、二〇〇五年)で公開してきた考察の完成した姿を示すものです。外見には変更の目につく部分もありますが、論旨はほぼそのままです。
4 吉川弘文館、一九一三年。
5 『日本歴史』四八六号、一九八八年。
6 『新訂増補国史大系 吾妻鏡』(吉川弘文館、一九三二年〜一九三三年)。句読点に手を加えています。以下同じ。
7 『圖書寮叢刊 九条家本玉葉』九(明治書院、二〇〇三年)。ただし、『玉葉』三(国書刊行会、一九〇七年、略号コ。一本は同書が用いた対校本)によって対校し、さらに句読点に手を加えています。以下同じ。
8 次項(3)で述べる玉葉資料の性格を前提とすれば、玉葉の記述の変形に九条家が関与している可能性も出てきます。兼実の義経に対する高い評価やこの後次第に顕著になる義経の運命への貴族社会一般の同情などが影響して、九条家側からは義経の非を語ると見える、その言動によって当時の朝廷を震撼させたという記述が、同家の資料作成者によってやわらげられたことも考えられるからです。吾妻鏡編者の曲筆としては納得できる理由の考えにくいこの問題に対する、一つの有力な解決策であるように思われます。
9 この連作「政治手法の西と東」の「一」(『愛国学園大学人間文化研究紀要』4号所収)二章末およびそこに付した注4で述べた吾妻鏡所載天下草創書状の原拠についての所見は撤回します。

                                                             (龍福 義友)

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
 本稿に対して高橋秀樹氏が見解を表明しておられます。後日お答えしますが、取敢えずその見解を原文で御紹介します。

 『玉葉』については、これを原史料とする八代説を批判する平田説が大方の賛同を得ているが、最近、龍福義友氏が両者の文言の検討から、『吾妻鏡』が引用する書状は頼経が入手した『玉葉』の抄出本に拠ったと見る説を提起している(注略)。しかし、頼朝と後白河法皇との交渉記事全体を見た時に、幕府に玉葉抄出があったならば、『玉葉』に拠った記事がなぜほかにないのかなどの問題が残る。(高橋秀樹「吾妻鏡原史料論序説」、佐藤和彦編『中世の内乱と社会』(東京堂、二〇〇七年)所収、注(5))
龍福義友
2007/06/10 16:58
 気づかれにくい場所に出した拙論をお読みくださり所見をお示しくださった高橋氏にお礼申します。「頼朝と後白河法皇との交渉記事全体を見た時に、幕府に玉葉抄出があったならば、『玉葉』に拠った記事がなぜほかにないのかなどの問題が残る」とされるのですが、拙論のような手法をとる考察に、この「全体を見た時に」どうなるかはわからないではないかという不満が起るのは、避けがたいことなのかもしれません。(つづく)
龍福義友
2007/06/12 15:20
(承前)
 しかし、「幕府に玉葉抄出があったならば、『玉葉』に拠った記事がなぜほかにないのか」という疑問は、実は拙論自身の課題としても成立していたもので、玉葉に詳記された「大天狗」状の朝廷到着時の情況がなぜ吾妻鏡には現れないのかを問い、「九条家による玉葉の抄出は、幕府関係の重要人物の書面または口頭での発言とそれに直接関連する朝廷側の人物の発言にかなり厳密に限定しておこなわれ、地の文での背景説明や兼実の対応の記述などは省かれるのを原則としていた」、「吾妻鏡の玉葉利用は、玉葉の地の文が含む詳細な朝幕交渉の記述には及ぶことのできない限界をもともと持っていた」と答えています(p7)。ただ、拙論の限定された視野には入っていない部分に、こう考えてもなお説明しきれない事例が見出されないとは言い切れませんが、仮にそうであっても、どのような疎漏や恣意的選別があっても咎められることのない抄出作業が介在することを考えに入れれば、さきの答自体が否定されるにはいたらないでしょう。限定された視野での考察であっても、その考察の成立する範囲さえ誤らなければ、その結論の適用をためらう必要はないと思っています。
龍福義友
2007/06/12 15:29

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